22周年をしみじみと語る、ひぃ坊家アナザースカイ・パート③
貧乏とは何か。清く貧しいことが美しいという日本の風土は、いまやアメリカナイズにダウングレードされ、貧しいは悪、投資だよ君、などと言われる始末。
「貧しさ=清々しい」という概念は感じなくなってきた昨今。
その点、自分たちは楽しかった。お金が無いほどアガッていた。
なぜならば、僕たちの世代(現在40歳前後)は、バブル絶頂に何もかもやりまくれと激しく生きた親を持つ世代。「お前の時計はどれほど高級なんだ」「靴は」「家は3度建てなきゃいいのはできない」などと真剣に話していたほど、お金が動きまくった時代。バブルがはじけ、その後始末に追われた世代の私たちの周りには親が作った借金を返すために生きている、そんな友達がわんさかいました。もうお金に疲れ果てていた。無いほうがいい。まわりの友達と、どれだけ貧乏エピソードを持っているかで盛り上がったものです。
でも、とにかく働かなければならない。80年代のカルマが追いかけてくる。お金が無いというのがバレた次の日に好きな人にも振られた。仕事。仕事が欲しい。
仕事があるためにはみんなが喜ぶものを作らなくてはいけない。
さつま揚げ、ラーメンは失敗。何も起こらない部屋で父と母、息子は黙って3人で近くのばあさんにもらった漬物で飢えをしのいでいました。
その時は突然起こりました。父のもとに知り合いから一本の電話が。ひょんな世間話から「餃子でもやれば?」と。間髪入れずに、母が言いました。
「餃子を嫌いな人はいないよねぇ」。私は思いっきり無視したのを覚えています。失敗の連続だったからです。その夜、父は考えました。母も。たぶん私も。
次の日、なんと父は餃子を作って30年と言わんばかしの顔で、もういっぱしの餃子職人の顔でいるではありませんか。バブルの遺産でしょう。これぞ「何とかなる精神」。
燃え上がる闘志は、歩幅を強め、意気揚々と餃子造りに向かう、と思いきや「作れないから仕入れて売るか」とまるで開き直った政治家のようでしたが、
ついに私たちは餃子との出会いを果たしたのでした。手探りから2年半。父母49歳、私22歳の夏。その時はまだまだ餃子の魔力に気づいていませんでした。
パート④に続く