22周年をしみじみと語る、ひぃ坊家アナザースカイ・パート②
こんなにも赤裸々に語ってしまっていいものか。
とてもじゃないが、さつま揚げもダメ。ラーメンもダメ。ときたら、何をやってもダメといった雰囲気が何も起こらない部屋を換気扇の音だけが満たしていきました。
当時すでに店舗はあったのです。いわゆる台所的?な、工場には程遠いので台所としときます。そこでさつま揚げやラーメンを実験しておりました。
おむすびころりなド田舎ですが、不思議なことに家賃はかかるのです。稼がなきゃいけないわけです。父と母は焦っているように見えました。
当時、20歳だった息子の私は社会のことなど全く知らずに生きておりました。バイトをすればいいと思われますが、うちはバイト禁止だったのです。驚愕ですが、今思えばバイト先に逃げられては困るといった父の愛(策略)だったのだと思います。そんな父と母が仕事をコロコロ変えるのを見て心配もしてましたが、訳も分かっていませんでした。
私はその頃、ギターでご飯を食べていこうと思っておりましたが、やはりそれは難しかったのでちゃんと箸で食べるようになったのはちょうどこの頃です。
親が親なら子も子とよく言いますが、まさにそれの完成品。NO FUTURE親子、路頭に迷います。
道端に落ちているソファや冷蔵庫などを拾っては運び、掃除をして台所的な実験工場に運び暮らし、台所実験場に車が突っ込んできて入り口や台所は大破。ちゃんと保険はおりました3万円。時には街に出て夜中に廃棄処分となったマクドナルドを漁り頬張り。怖いのは友人の結婚式。お祝いのお金が無いのです。断ることも失礼と当時は考えてましたので、今思えば大変失礼なのですが、お祝い袋に小銭(764円くらい。しかもビール瓶を溜めて酒屋に売った大切な764円)を詰めて出かけたものです。スーツももちろん友人の借り物。やせっぽちの私が3Lほどある大スーツしか借りれなかったので、完全にLAのギャングスタ。が新郎に小銭で怒られている。かけている眼鏡はテープで補修されまくっている…謎が謎を呼ぶ事態になったのは幾度もありました。明治大正の話ではないです。西暦2003年です。
そこで、はたと考えてしまいました。「なぜこんなに貧乏なんだ?」と。
パート③に続く…