22周年をしみじみと語る、ひぃ坊家アナザースカイ・パート①
今年で22年目を迎えるひぃ坊家。
餃子を作って22年目かと思いきや、なんと初めは「さつま揚げ屋」でした。
22年前、当時48歳の代表取締役の父(当時はまだ個人で何者でもない)と、ド天然の母(現在のド天然)、天才肌20歳の息子(現在の代表取締まられ役の私)の3人で
始めた商売はさつま揚げ屋だったのです。ズブの素人でしたのでレシピは子供並。
ちんぷんかんぷんだったので最終的に、鹿児島は大隅半島の内之浦という超田舎でおばあちゃんが作っていたすり身を仕入れて自宅で3人で丸めたものを揚げ、箱に詰め、友人や知り合いなどを頼りに遠くまでお中元などの発送とかをして頂いていました。田舎でしたし、郷土料理である鹿児島人には、中でもどこの馬の骨かわからないお店など見向きもされないためです。
少しは売れたのですが、今考えると素人ならではの多すぎるつまみ食い、素敵な勘違いや問題も多く、なかでも大変だったのが儲け。
肝心の儲けが出るには至らず、ため息をついたふりをしていた父が同時期にラーメン作りを始めました。驚愕したのを覚えています。
なぜならここ川辺は、おむすびころりに出てきそうな超ド田舎。絶対数が少ないのです。ましてやお店を作るお金など無し。
しかし、自分も父親になって分かったのですが、そこでやめては父が廃る。
とんでもなく高価な材料を使い試行錯誤の上、「美味しいのができた」と話す父を横目に原価計算すると1杯1,800円のラーメン…!ここはおむすびころり。
出す前からあきらめてしまう程の衝撃を未だに忘れたことはありません。
さつま揚げ屋からラーメンまで実に2年間、訳もわからず走り続けておりました。途方に暮れる3人でしたが不思議と楽しくやっていたのを思い出します。必死に近い。
初めの5年間、ひぃ坊家の屋号に「黒豚餃子」が入ってなかったのはこのためで、永遠に見えないと思っていた時代とのカーチェイスはもう少しで転機を迎えます。
この時3人が想像もしていない、黒豚餃子のひぃ坊家が爆誕するまであと3年…!
パート②に続く…